残り半分

話がまとまる前にやめとく派です

過渡期なのかな

わたしの勤めている業界は在宅勤務をあまりやらないほうですが、それでもここ数年でリモートワークの機会はとても増えていて、定例会議のようなものを対面で行うことはほぼなくなりました。つまりウェブ会議や、チャットシステムを使った打ち合わせとか、そういうのがめっきり増えた。そうするとコミュニケーションで大切になるのは、表情やジェスチャーよりも、言葉そのものになってきます。言葉で目的と感情をあらわす。それってなかなか難しいなあと思う。

わたしは昔からどちらかというと、言葉や文節や行間が意味するモノゴトについて考えるよりも、古典物理の公式を微積分するだけで日常的現象の法則にたどりつく、そのダイナミズムにグルーヴを感じるタイプだったので、言葉で明確に目的を語ることはできても、感情やニュアンスや機微を伝える時はどうしても対面方式のコミュニケーションを選び続けてきました。

そういうわけでここ数年のリモート全盛になってからは、発言内容や文字にはとても気を使うようになりましたが、まあ苦手です。気を使いますね。

それともうひとつ難しいのが、話を脱線させることが難しいことです。交渉は緊張と緩和で成り立つと思うのですが,言葉のコミュニケーションは主題から脱線させることが難しく、テーマに沿った会話のみになりがちです。緊迫した言葉主体の会話が続くとお互いに内容がエスカレートしてつかれてしまうことがあります。対面だったら一度閑話休題させるものですが、そのタイミングが取りにくい。

なんてことを考えてるのはおそらくわたしのような臆病者だけかもしれなくて、人によっては恐れることなくストレートに発言してきて、ときに誤解を生みかねない呪詛の言葉を投げかけられたりします。ただそれが冗談なのか、本気なのか判然としない。

わたしはネットコミュニケーションに長けてるほうではないですが、たしかオープンソースOSであるLinuxをボランティアで開発するコミュニティでは、ダメなことを理解してもらうために、ものすごい言葉で非難することもあるらしい。たしかに、バックグラウンドの異なる人の集まりで、ひとを傷つけないよう微妙なニュアンスで言葉を濁して話したら誤解を生んでしまって品質低下を招くかもしれないな、というのは想像できる。ただいまわたしが生きている世界ではなかなか浸透が難しいコミュニケーションの方法だなとも思います。

わたしの大好きな音楽について考えた時、表現はインフラで変わる、ということがいえそうな気がします。クラシックがオーケストラになって多人数を相手にできるようになり、レコードでマスなものになり、電気的な増幅システムでさらに多くの人とライブ体験ができるようになった。リモートでのコミュニケーションの表現要素が対面ほどの情報量ではない今の状況で、感情表現に文学的な言葉の機微を使いこなすことが正しいのか、あるいは、目的を達するために対面で使う言葉とはまったく異なる文法や意思表示方法、いわばビジネス・ネットコミュニケーション文法みたいなものを使うようになっていくのか、面白いことが始まっているのかな、なんてことを、これを書きながら思いました。

 

写真は三ツ峠山に登った時のものです。朝焼けを見たくてナイトハイクしました。怖かった。

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