残り半分

話がまとまる前にやめとく派です

下書き供養はバッハになった

今週のお題「下書き供養」

下書きについてはとってもタイムリーと言いますか、この頃よく考えていたことです。下書きに書きかけのものがそこそこたまっていて、どうしようかなと悩んでいました。数えたら41個です。中身を流して読み返すと、自分の中で旬を過ぎてるし特に未練もない内容ばかりなので、これを機会にガンガン削除していたところ、一つだけ気になる文章がありました。

あの子の父親はレコードをたくさん残してくれたけど、あの子はそれをぜんぶ聴いたあとで、最後にバッハをお気に入りに選んで、何度も何度もくりかえし聴いていた。子どもをとりこにするような音楽じゃなかった。最初は気まぐれで選んだのかと思っていたけど、感想を訊いてみると、音楽の中に、ものすごく巨大な、複雑な構造の家が見えるって言ったの。巨人がすこしずつそれに手を加えて、曲が終わると、家が完成しているんだ、って

これはむっちゃよくわかる。バッハの音楽の魅力について全く同意。引用タグをつけてるので、多分何かの文章の抜粋なんですけど、この文章丸ごとで検索しても特にヒットするものがありませんでした。

けれどこれ多分、小説「三体」の抜粋だと思う。未だ積読状態で読了に至っていませんが、解釈の仕方が理系的であることから、わたしの少ない読書歴からは他にありえない気がします。

 

バッハの音楽の不思議さは、複数のメロディの組み合わせによってのみ表現されていることにあります。現代の大衆音楽に必須な表現手法とほとんど無縁なんです。例えば小学校の時に習ったフォルテやピアノなどの強弱抑揚や、長調短調といった明るい・暗い印象を表す音楽的要素がない、のっぺりした音楽表現なのがバッハの音楽です。そういう意味で、作曲上大袈裟にやってやろうという部分はいっさいなくて、音の配置情報の組み合わせのみによって鳴らされています。「情報組み合わせ」は統計・確率論に密接ですから、数学が大変得意とする分野で、それは理性的なものです。バッハの音楽が理系表現に親和性がある所以です。その組み合わせ論的な理系表現である抑揚のないのっぺりした(よく言えば理性的な)音楽が、何百年にもわたってことごとく我々の感情を大きく揺さぶるのです。わたしがクラシックの中では特にバッハの音楽が好きなところはそういう理性が生み出す情動が顕著なところです。譜面上は喜怒哀楽の表現欲求が無く、しかし理性的な旋律の組み合わせによって聴くものの心情を大きく揺さぶるのです。またそのような喜怒哀楽を超えた情動表現はこれまたわたしが大好きなジャズ(特にモード)にも通じますし、それこそ音楽だからこそ表現できるパッションだ、というのが持論です。

 

あとで小説「三体」を取り出して読み返してみよう。そもそもどこに置いてあるか探すことから始まりますけど。