残り半分

話がまとまる前にやめとく派です

備えとは

今週のお題「もしもの備え」

ランニング風景。暑いのは嫌いですがこういった風景は夏ならではの清々しさがあります。

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備えって結局何なのでしょうね。個人で対応できることといえば、食料や生活必需品の備蓄、あたりでしょうか。何となくそれは手堅い方策に思えるのですが、実際に震災やこの感染騒動、近年続く豪雨被害に遭ってみると、ほとんど焼け石に水なんですよね。ほんの2、3日であればわざわざ備えと呼ばずともいまの手持ちの物たちで何となくやり過ごすことはできそうですが、それ以上の期間継続して物流が完全に滞るほどの緊急事態に対して、個人レベルで備えておくというのはほぼ困難のようですし、そういったとき備蓄の有無にかかわらずひたすら買い占めに向かってより混乱をきたしてしまうのは、社会的心理としてどうにもならないことのように思います。備えの目的が一体何なのか、うちにはあるよ、と安心感を得ること以外に合理的な理由がもしかするとないのではないか。

備えようとする心理のもとは多分、人が未来を想像することができるからです。クマさんやリスさんも冬眠に備えて体脂肪を増やしたり、巣の中に備蓄したりしますが、彼らの冬眠への備えは本能的・遺伝的に実施していることで、かつ冬という始まりと終わりがあることをわかっている期間を対象にしたルーチンワークの一つと言えて、決して未来に不安を感じて蓄えているわけではありません。けれど人間は未来を案じて不足の事態に備えようとしてしまうんですよね。その蓄えが合理性を伴うか否かを別として。

冷戦時代に見られた備えに、核シェルターというのがありました。核戦争に備えて、例えば1年ぶんの食糧を蓄えて頑丈な地下室を建造するという物です。当時でさえ備えとしてはたいへん珍しかったので、シェルターを建造した人がテレビで報道されたりしましたが、そもそも1人だけ生き残ってどうするんだという感想と、1年程度で汚染がおさまるようなことはないだろうにどう思ってるのかな、そしたら食糧1年じゃあ足りないよなあ、と子供ながら考えていました。いま思い出して考えるともう一つ、そのときは全く取材がされていなかったと思うのですが、トイレという超重要課題が多分忘れられていたように思います。排泄対策なしでは、生きるのが不可能でしょう。ちなみに究極の限界環境である国際宇宙ステーションでは、汚物をためたタンクを大気圏に投入し、大気圏の摩擦熱で焼却、塵にしているようです。我々の頭上に降り注いでいるわけですね。余談でした。

ここまで考えて、究極的な備えとは、いかに代謝を克服・解決するか、つまり食べ物と飲み物を摂取して排泄することを超越すること、ということになりそうです。しかし代謝機能については、生物が生物足り得るための定義でもあります。そしてその定義が我々生物としての活動の足かせでもある。代謝についてはいまだに我々人類が乗り越えることができていない課題です。ここは逆にクマさんを見習って心拍数を低下させて代謝機能を落とす、つまりコールドスリープを開発する、という感じで、テクノロジーでの解決を試みないかぎりは排泄問題は解決しないのではないかと思います。小説三体では過酷な環境下で人を乾燥化させていましたが、それも代謝を解決する手法の一つですが、一定期間水分が保持できないのは生き物にとって多分相当リスクが高い。緊急事態においてコールドスリープを管理する体制が組めるほどの技術的進歩が達成できるのは今のところ夢のまた夢でしょうけど、最初の疑問に対する答えとして、わたしにとって「もしもの備え」とは、こういうことになりました。